ファラデーの伝- 実験して見る・実験に対する熱心・発見の優先権 -

三十六、実験して見る

 ファラデーはいかによく書いたものでも、読んだだけでは、しっかりと、のみ込めない人であった。友人が新発見の話をして、その価値や、これの影響いかんというようなことを聞かされても、ファラデーは自分で実験して見たものでなければ、何とも返事が出来なかった。

 多くの学者は学生や門弟を使うて研究を手伝わせるが、ファラデーにはこれも出来ない。「すべての研究は自分自身でなすべきものだ」というておった。

 ロバート・マレットが話したのに、十八年前にムンツの金属という撓(たわ)み易いが、ごく強い金属を硝酸第二水銀の液に漬けると、すぐ脆(もろ)い硬い物になることをファラデーに見せようと思って持って行った。ファラデーが早速この液を作ってくれたので、自分がやって見せた。ファラデーの眼前で、しかもすぐ側で、やって見せたのだから、まさか疑ったわけではあるまい。しかしファラデーは見ただけでは承知できないと見えて、自分でまたやり出した。まずその金属の一片をとって、前後に曲げて見、それから液に漬け、指の間に入れて破って見た。この間ファラデーは黙ってやっておったが、漸(ようよ)う口を開いて、「そうだ、軟(やわらか)いが、なるほどすぐに脆くなる。」しばらくしてこれに附け加えて、「そう、もっと何か、こんな事は無いでしょうか。」「新しい事は、これ以外には別にない」と言うたら、ファラデーは多少失望して見えた。

 ファラデーがある事実を知るのには、充分満足するまでやって見ることを必要とした。それですっかり判ると、その次にはこれを他の事実と結んで、一つにして考えようと苦心した。実験室の引出しの内に在った覚書に、こんなのがあった。

    四段の学位

ある新事実の発見。

この新事実を既知の原理にて説明すること。

説明出来ないような新事実の発見。

その新事実をも説明し得るような一層一般的なる原理の発見。

M、F、

三十七、実験に対する熱心

 ファラデーの実験に対する熱心は非常なもので、電磁気廻転を発見したときに、踊って喜んだことは、前にも述べた通りである。光に対する磁気の作用をヂューマに見せたときも、実験がすむと、手をこすって、眼は火のように輝き、これを自分が発見したという喜ばしさが、ありありと見えたという話である。

 自分の発見だけではない、人の発見した事でも、新しい実験は非常に喜んだ。ヘンリーがアメリカから来て、キングス・カレッジで他の科学者と一緒になったとき、皆が熱電堆から出る電気で火花を飛ばそうと試みた。ヘンリーがそれをやって成功したとき、ファラデーは小児のように喜んで、「亜米利加人(ヤンキー)の実験万歳」と怒鳴った。それからプリュッカーがドイツから来て、王立協会で真空管内の放電に磁石を働かせて見せたときも、放電の光が磁石の作用に連れて動くのを見て、ファラデーはそのまわりを踊って喜んだ。

 またジェームス・ヘイウードがイーストパンで烈しい雷雨のときに、偶然ファラデーに出逢った。ファラデーは「丁度協会の塔に落雷するのを見た」といって、非常に喜んでおった。

三十八、発見の優先権

 発見の優先権については、ファラデーは非常に重きを置いた。ファラデーのように、誠心誠意の人でもあり、また感覚の鋭敏な人でもあり、かつ初めに苦しい経験を甞(な)めた人でもあり、また他方で巨万の富をすてて科学の発見を唯一の目的とした人の事であるから、もっともなことである。初めの苦しい経験というのは、デビーの助手をしておった時代に、電磁気廻転につきてウォーラストンとの間に行き違いがあり、その後に塩素の液化の発見についてデビーとの間にごたごたがあった事で、これがため、ローヤル・ソサイテーの会員の当選を危からしめた程である。

 この後、ファラデーは研究を発表する時に、月日を明記した。ところが一八三一年に、電磁気感応を発見したときにも、また不思議なことで行き違いが起った。ファラデーの発見は同年の九月から十月の間のことで、これを十一月二十四日にローヤル・ソサイテーで発表した。それより二週間を経て、概要を手紙に書いてパリのハセットの所へ送った。この手紙が行き違いを生ずる源となった。ハセットはこの手紙を十二月二十六日にパリのアカデミーに送ったが、その二十八日の新聞ル・タンに掲げられた。それでローヤル・ソサイテーで発表した元の論文は、この時まだ印刷出来なかった。

 このル・タンに載せた手紙をイタリアのノビリとアンチノリとの両人が見て、この先きは自由に研究してよいと思ったから、ファラデーの発見の委細は知らないで、感応の研究をし、その結果をまとめた。一八三二年一月三十一日附であったが、妙なことには雑誌アントロギアの一八三一年の十一月号の遅れたのに出たので、事情をよく知らない大陸の人々の眼には、ファラデーの論文より此方が早く出たように思われた。

 ファラデーはノビリ等の論文を英訳して、これに弁明を附し、一八三二年六月のフィロソフィカル・マガジンに出した。またその後に、ゲー・ルーサックの所へも、長い手紙を書いて送り、ノビリ等の論の誤謬をも詳しくいってやった。

 科学上の発見の優先権を定める規則として、現今はその発見が学界に通知された日附によることになっているが、これはファラデーの事件から定まったことである。

 ファラデーは、実験上の発見は盗まれるものなることを知っておったので、この後は学界で発表するまでは秘密にして、外の人に知らせなかった。反磁性の発見をしたときも、ごく心易いデ・ラ・リーブにだけは手紙で報導したが、それもローヤル・ソサイテーで発表するまでは、他の人に話してくれるなと、特に書き添えて置いた。

 ファラデーが後進の人達に話したのには、研究をどんどんとやり、やりてしまったら、まとめてすぐに発表せよというので、すなわち「勉強し、完了し、発表せよ」というのであった。

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入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄

このファイルは、青空文庫さんで作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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